焦土と化した東京
アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。そして、B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まり、3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。