「ヤルタ協定」(ソ連の対日参戦に関する協定)
昭和20年(1945)2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連が、ソ連にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定。
「ソ連が日本に対する戦争に参加すること。日本の敗戦において、樺太の南部とこれに隣接する一切の諸島はソ連に返還され、千島列島はソ連に引き渡される」というもの。
第二次世界大戦に、無条件降伏した日本が、いかに不服を申し立てても、ロシアは聞く耳を持たないでしょう。戦後79年も経過してしまっては、ロシア国民も千島列島がロシアの領土であることに懸念をもつ人はいないでしょう。
- 1941年3月13日、日本はソ連と5年間の中立条約を結んだ。中立条約交渉の中で、クリル列島は対立点になった。ソ連は南サハリンとクリル列島の返還を要求した。
- 1941年7月2日、日本は天皇臨席の御前会議で、ドイツ軍のソ連侵略が有利に進展したら、日本も参戦することを決定した。
- 1945年2月11日、米国、ソ連、英国はクリミヤでヤルタ協定を締結した。協定によって、ドイツ降伏後、連合国と共に日本と戦争する責任が、ソ連に課せられた。協定では、参戦の見返りに、南サハリンとクリル列島をソ連領とすることが決められた。
- 1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を破棄した。
- 1945年7月26日、連合国(米・英・中)は日本に最後通牒を発した。(ポツダム宣言) 日本は最後通牒を拒否した。
- 1945年2月11日のヤルタ協定にもとづく、ソ連は連合国との約束を守って、8月8日ポツダム宣言に参加し、8月9日、日本に対して宣戦布告した。
- 1945年8月18日、米国大統領トルーマンは、スターリン大元帥に宛てた電報の中で、ソ連に降伏する地域に全クリル列島を含めることに賛成した。
- 1945年8月15日にポツダム宣言受諾声明をしたにもかかわらず、サハリン・北クリルの日本軍は、8月22日までソ連軍に抵抗した。数千人のソ連軍人が戦死。
- 1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。
- 1945年9月6日、英国・米国外相声明により、ヤルタ協定に従い、クリル列島はソ連領に含めることが明らかにされた。
- 日本はマッカーサーの覚書によって、千島の国家的権力、施政権を失った。マッカーサーの覚書は占領下の施政を定めたものなので、平和条約を締結し戦争が終結すると占領下の施政命令は失効し平和条約の規定に従う。ところが、日ソ間では、平和条約を締結すること無しに戦争状態を終結させた。
- 日本政府は、サンフランシスコ条約で、南樺太・千島の領有を放棄したので、放棄した領土がどの国に属するのかについて発言する権利は無いと説明している。
- 平和条約国会で、西村熊雄条約局長は、日本国が放棄した千島列島には、南千島である国後島・択捉島を含まれると説明した。ただし、歯舞・色丹は放棄した千島に含まれないと説明している。
- 日ソ共同宣言では、歯舞・色丹を日本に引き渡す理由として、「日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して」と書かれている。しかし、政治情勢の変化によって、日本へ引き渡す理由がなくなった。
日露和親条約が結ばれた2月7日
2月7日は、1855年(安政元年)伊豆の下田で、『日露通好条約』が結ばれ、平和のうちに択捉島とウルップ島の間に国境を定め、択捉島から南は我が国の領土として国際的にも明らかにされた歴史的な意義をもつ日です。「北方領土の日」は、1981年(昭和56年)1月6日の閣議で決定されました日です。
北方領土問題とは?
日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。
しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを占領しました。当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。
<色丹島>
かつては日本人による捕鯨基地などもあり、とても栄えていた島です。歯舞群島、色丹島にはクマはいません。択捉島、国後島にはいます。一時期、絶滅が危惧されたタンチョウヅルが歯舞、色丹では確認されています。
<国後島>
世界でもっとも美しい火山といわれる北方領土最高峰・爺々岳が有名です。ここには、あの「ムネオハウス」があります。正式名は「日本人とロシア人の友好の家」。これができたときは、いよいよ返還か、と思われましたが、その後、ムネオハウスは訪問団の宿泊施設として利用されるだけで、当時のまま時計が止まっています。
<択捉島>
北方領土最大の島、択捉島にはかつて、日本人が住む大きな村がありました。国後島と同じく火山の島としても知られています。温泉施設もあり、地元の人は温水プールを楽しんでいます。島の北端(北緯45度33分)は、日本最北端になります。この島の見どころは、なんといってもラッキベツの滝です。実は、この滝は日本一大きい滝でなのです。