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日本国民はだれひとり国家分割の危機など知らなかった
ソビエトは、昭和二十年二月のヤルタ会談において、ドイツの降伏後三カ月たったら対日参戦して、一気に満洲に攻め入るということを、ルーズベルト、チャーチルと諮って態度を明確にしています。
ドイツは昭和二十年五月七日、降伏文書に調印しました。それから三カ月後の八月七日以後には、ソビエトが日本に参戦してくることになりました。
ソビエト参戦の暁には、樺太はもちろん返してもらい、それから千島列島もソビエトのものにする。この千島の条項は、千島は必ずしもソビエト領ではないから、日本から勝手にもぎ取るというような表現で、アメリカも承諾しています。
ソビエトはヨーロッパで、ドイツ降伏後、ドイツの半分、ベルリンの半分をもぎ取りましたが、その方式をそのまま日本に持ち込み、日本本土にソビエト軍を送り込みたいと強く思うようになりました。
アメリカも、アメリカ軍の損傷をできるだけ減らしたいということで、はじめはソビエトの参戦を猛烈な勢いで督促していました。
日本分割統治案
第一局面として、日本降伏後三ケ月間は、アメリカの軍隊八十五万が軍政を敷いて、日本軍の降伏が完全になるまで、日本本土を掌握する。
第二局面、三カ月経過後の九ケ月間は、アメリカ、イギリス、中国、ソビエトの四ケ国で日本本土に進駐し統治する。
第三局面、占領が終了して日本が平和条約を結んで国交を回復するまでの間は、日本本土を四つに分けて、関東地方と中部地方および近畿地方をアメリカ軍、中国地方と九州地方をイギリス軍、四国地方と近畿地方を中国軍、北海道と東北地方はソビエト軍が統治する。さらに、東京は四カ国が四分割して統治する。
この分割案は、昭和二十年八月十六日に完成しています。
ルーズベルト大統領が長生きしていたら分割統治は実行されていた?
ルーズベルト大統領の無条件降伏政策を、トルーマン大統領は必ずしも継承しようとはしませんでした。それに、天皇制の問題まで連合軍が勝手にするような強硬政策では、日本人は講和など結ばない、結べない、できるだけ緩和した条件で日本の降伏を誘うべきであると、グルー元駐日大使をはじめとする知日派の人びとがしきりにアメリカ政府に働きかけていました。
幸いなことにグルー元大使が昭和十九年末に国務次官になり、国務長官に働きかけることで、アメリカの政策が緩和の方向に向かっていく、と同時に、ヨーロッパでの東西の対立が顕著になり、米英はソビエトに対して猛烈な警戒心を抱きはじめました。
そうして、日本の占領政策としては、天皇陛下および日本の政府の機構をそのまま使ったほうがうまくいくのではないかという考え方が、アメリカ政府のなかに芽生えてきました。それが、日本降伏後のアメリカ政府の政策決定に大きな影響を与えました。
焦るソビエト
ソビエトは、八月九日、約束どおり満洲に侵入して対日参戦をしてきました。ソビエト軍は満洲を占領するのがやっとであり、いわんや北海道まで軍隊を持ってくることは時間的に不可能であるということから、アメリカとの外交折衝によって何とか日本本土に軍隊を送り込もうと、さまざまな手を使いました。
八月十日、日本時間の八月十一日の午前二時、モスクワで、ハリマンという当時のアメリカ駐ソ大使と、ソビエトのモロトフ外務大臣とが猛烈な激論をしました。
『モロトフは、「日本占領にアメリカの軍司令官とソビエトの軍司令官の二人を置こう。アメリカ軍の軍司令官にマッカーサーを選ぶならば、わが軍は極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥を選ぶ。マッカーサーとワシレフスキーの二人で、日本を二つに分割して統治しようではないか」と、強硬にハリマン大使に言いました。
ハリマン大使は、満洲でのソ連軍の国際法無視の理不尽な攻撃に不信感を抱いていました。
「とんでもない話だ。わがアメリカ軍は日本を相手に四年間も戦っている。しかるに貴国はわずか二日ではないか。二日しか戦っていないソビエト軍になぜ日本の統治権の半分を渡さなければいけないのか。全く理屈に合わぬ」
と言って、これを断固としてはねつけました。
これに対しモロトフは、「それはお前の勝手な意見ではないか。ワシントンに問い合わせて聞け。トルーマンはそのように言わないはずである」と言うが、ハリマンは、「トルーマン大統領に聞かなくてもわかっている。私はトルーマン大統領からすべてのことを聞いてきている。全権は私にある」
と言って突っぱねて、モロトフの攻勢を抑えました。
ハリマンは、トルーマンに知らせることもなく、自分ひとりの判断でソビエトの要求を退けました。
後に、トルーマンはそのことを聞いて、まさにハリマンは自分の思ったとおりのことをやってくれたと激賞するが、とにかくハリマンの頑張りによって、ソビエトは一旦は鉾を収めざるをえませんでした。』
「北海道の分割」を提案
ソビエトは、日本が降伏した翌日の八月十六日、スターリンはトルーマンに対して、「日本本土を半分にわけて軍司令官二人による統治はソビエトとしてもあまりにも過大の希望であると思うので、これは引っ込めるが、北海道を留萌と釧路を結ぶ線で二つに分けて、その北半分をソビエト軍が統治したい。
留萌と釧路の町は当然ソビエト軍のなかに入るものとする。もしこの希望が叶えられないならば、ソビエト国民の世論が承知しないだろう。テヘラン会談以来の米ソ関係がこれによって悪化することもあり得るかもしれない。それはアメリカ政府としては十分に考えていただきたい」という強硬な書簡を寄越して、北海道の北半分の領有を求めてきました。それに対して、トルーマンは、「もはや日本占領軍最高司令官はマッカーサーただ一人に決めてある。北海道も日本本土のうちであるから、マッカーサーの統治下にある。ソビエト軍は一人たりともその統治に加わることを得ず」という強い返事を送りました。
スターリンはかんかんに怒って、「私と私の同志は、かかる返事を受けようとは予期しなかった、これが戦後肩を組んで世界政策を推進していこうという友邦のやることであるか」と、恨み骨髄のようなことを言うという一幕がありました。日本分割のソビエトの夢はこうして潰えました。
その代りに満洲にある日本軍兵士たちをシベリアに送るという悪魔的な政策をとりました。